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プロレス通信簿

長州との出会いは?武藤を脱帽させた天龍の技は?天龍引退カウントダウン・新日本20世紀編!

天龍源一郎と好敵手たち~新日本プロレス(20世紀)編

「越中は、生き方がぶれてないよね」(天龍)

天龍引退カウントダウン企画。遂に引退試合まで1ヶ月を切った3週目はいよいよ、その勇姿がマット界の中心となった、90年代の新日本プロレスでの闘いを取り上げたい。

92年7月より、自らの団体WARを率いて、新日本との対抗戦を提唱した天龍。だが、遅々として交渉が進まない中、名乗りをあげたのが、時の新日本内の不満分子・反選手会同盟の越中詩郎だった。「本隊の奴らは天龍が恐いのか!?なら、俺が相手をしてやる!」(越中)。実はその7年前、越中が当時所属していた全日本プロレスの退団にあたり、天龍に世話になったのは有名なエピソード。社長である馬場のところに行き、一緒に頭を下げた。無事、新日本行きが決まり、ひたすら御礼を言うばかりの越中に、天龍は一言、「金、あるのか?」。胸ポケットに強引にねじ込まれた多くの札に、越中は感激し、声が出なかったという。

「猪木さんとは、勝率10割(笑)」

7年後、そんな越中との抗争から、念願の新日本上陸となった天龍。残した名勝負には枚挙に暇がない。合計85発のチョップとキックの打ち合いだけで試合を魅せた橋本真也戦(98年8月1日・同年プロレス大賞ベストバウト2位)。「どっちが“ミスター・プロレス"か、決めようよ」と、武藤敬司に持ちかけられた一騎打ち(99年5月3日)では、御年49歳にして雪崩式フランケンシュタイナーを初敢行。「やっぱりあの人が、ミスター・プロレスだよ」と脱帽させた。94年1月4日の唯一の猪木戦でも激勝。試合後、「俺は猪木さんのパンツを洗ったことはないから」と、その影響化にあると、なかなか猪木の存在を超えられない問題点を、独特の言い回しで口にしていた。

「長州戦は、俺の求めていたプロレスだった」(天龍)

そして最大のライバルが長州力だ。実は出会いは83年のプロレス大賞の受賞式。天龍の方から飲みに誘い、アマレス五輪代表の長州をこう褒めた。「(プロレスの神様・)カール・ゴッチの道場に行って、すぐにケツまくった(=自らの意志で辞めた)んですって?!」。続けてこんな風に言った。「俺、今、(元力士の)上田馬之助さんに喧嘩売られてるんですけど、俺、言っても(相撲では)元前頭筆頭ですよ?上田さんなんて序二段じゃないですか?」気が付くと長州は、自らの恵比寿のマンションに天龍を迎え入れ、朝まで飲んでいた。

5年より全日本プロレスのリングで激闘を繰り広げた2人。だが、87年、「全日本には夢がない」と公言し、長州は新日本に戻った。その際、天龍は別れの電話を受け、長州にこう言われた。「もし良かったら、こっち(新日本)に寄り道してみないか?」天龍は答えた。「全日本でやり残したことがある」それは、長州が「夢がない」と言って去っていった全日本を、自らの熱い闘いで盛り上げる、“天龍革命"の始動を意味していた。

93年1月4日、遂に新日本の東京ドームのメインで再会した天龍と長州。互いの気持ちを剥き出しにする一戦を、当時、“格闘芸術"を標榜していた猪木が、マイクで、「ありがとう!素晴らしい試合!」と絶賛した。その4か月後、2人は初タッグを結成し、福岡ドーム大会のメインに。入場時に実況アナの声が被さる。「プロレス・ロマン・2ショット!」 それは、くすぶっていたアマレス五輪出身者と元幕内力士が2人で紡いだ、文字通りのプロレス・ロマンの結集ではなかったか。

プロレスライター 鳥浜 英佐

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