
プロレス通信簿
天龍源一郎と好敵手たち~全日本プロレス(20世紀)編
天龍引退カウントダウン企画。いよいよ4週目は、天龍がデビューし、マット史に残る“天龍革命”の舞台ともなった、昭和全日本プロレス編を取り上げたい。
やはり生涯1番のライバルと言えばジャンボ鶴田。82年の初対決は30分時間切れ引き分け。83年の2度の対決は当日に急遽決定。その理由が、当時全日本プロレスを放送していた日本テレビのお偉方が来たためというのが面白い。2人に対するジャイアント馬場の自信がうかがわれる。(結果は30分時間切れ引き分け。)87年6月の「天龍革命」以降は名勝負の連続。(革命以降の)初戦は天龍がリングアウト勝ち(87年8月)。退場時、壮年サラリーマンが「天龍、よくやった、よくやったよ」と駆け寄る姿が印象深い。4戦目は鶴田のパワーボムで天龍が失神。(89年4月)後年の鶴田の「ちょっとやり過ぎちゃったかな(笑)」という振り返りに、その底知れぬ強さを感じる。5戦目(89年6月)は「東京スポーツ選定・20世紀名勝負」第1位に選ばれた。引退日の11月15日に発売される引退記念DVD-BOXで初ソフト化されているので、ぜひご覧頂きたい。
日本人として初めてジャイアント馬場をフォールした天龍だが(「天龍&ハンセンvs馬場、ラッシャー木村」89年11月)、こちらは天龍&ハンセンを相手に15分以上1人で闘い抜く馬場の大奮闘が目立つ。当時、天龍が新日本の選手に対して、「なぜ猪木さんが衰えたとか言うのか?遠慮介錯なく攻めれば、そこから攻防が生まれる筈だ」と批判したことがあるのだが、この発言には、天龍の激しい攻めに同じ激しさで応えて見せた馬場への敬意も感じられよう。因みに馬場の殺人技・32文ドロップキックを最後に受けたのは天龍だった。(83年11月)
革命以前の外人のライバルは、技巧派として知られたテッド・デビアス。(アメリカでのデビュー戦の相手でもある。)UNヘビー級王座を保持していた天龍が、「俺が持つことで、価値が落ちている気がする」とベルトを返上し、王座決定リーグ戦を開催したことがあった。(86年4月)。そして、同リーグ戦で優勝したのは、結局、同じ天龍だったのだが、決勝の相手はデビアス。名勝負の末、再びベルトを巻いた天龍には、満足気な笑顔があった。
そして外人の最大のライバルと言えばスタン・ハンセン。2冠王(PWF&UN)だったハンセンが大死闘の末、天龍に勝利した後、1本を投げ渡した名場面も。(89年3月)その後、2人はタッグを結成も、スティーブ・ウィリアムス(パートナーはテリー・ゴディ)のデスロックに天龍がギブアップし、仲間割れ(90年3月)。「怒ってはいないけど、残念だ。俺とやる時の天龍はとても強いのに……」というハンセンの悔しげな表情が印象に残る。翌月、全日本を退団した天龍だが、00年に復帰。同年10月、ハンセンと11年ぶりのシングルを行ったが、既に両膝が限界にきていたハンセンはラリアットを出しながらも完敗。この一戦の次の6人タッグを最後に引退した。引退会見では、「天龍は全力で俺を叩き潰しに来てくれた。嬉しかったよ。何の後悔もない」と述べたハンセン。最後の試合ではラリアットを出さなかった。ハンセンのラリアットを最後に受けたのも、天龍だったのだ。
プロレスライター 鳥浜 英佐