ファン必見! 注目の試合を採点!

プロレス通信簿

ジャイアント馬場を張った若手って?
ハンセンが、過去数回しか見せてない、試合前の儀式とは?
「世界最強タッグ決定リーグ戦」秘話!

プロレス通信簿~世界最強タッグ決定リーグ戦秘話

ファンクスの反則勝ちの名勝負に、パクリ疑惑?!

全日本プロレス「世界最強タッグリーグ戦」の季節がやって来た。なんと今年で38回目を迎える、プロレス史上かつてない長寿シリーズ。今回はその前期を中心に、厳選した秘話をお届けしよう。

同大会の前身となったのが、77年の「世界オープンタッグ選手権」。決勝で行われたテリー・ファンク&ドリー・ファンクJrの「ザ・ファンクス」とアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークが名勝負となり、翌年からの継続開催に繋がったわけだが、同試合では、ブッチャーがテリーの腕にフォークを突き刺すシーンが有名。ところが、いわば歴史を作ったこのフォーク。盗品だった。前日、ホテルでディナーを食べながら「明日の決勝、インパクトのある凶器はないかな」と考えていたブッチャーが、目についたフォークをそのままくすねてしまったとか。なお、「必ず返す」と誓ったブッチャーだが、試合中にそのフォークはなくしてしまったそうだ……。

輪島の試合が終わった瞬間、帰る客も……。

さて、同大会には弊害も一つ。「全公式戦を終了した時点での最高得点チームが優勝」というルールだ。ということは、ファンも得点状況をわかってないと、盛り上がれない。これによる悲劇が起きたのが86年の大会。最終戦の公式戦終了時点でジャンボ鶴田&天龍源一郎と、スタン・ハンセン&テッド・デビアスが同点で並び、改めて、史上初の同点決勝が行われることになった。ところが、なんとこの試合を観ずに、約2割ほどの客が帰ってしまったのだ。ちゃんとリングアナによる告知もあったのだが、当日のパンフにはもちろんこの同点決勝は書いておらず。この日は、元横綱、輪島大士の東都デビュー戦もあったため、それ目当ての客が多かったためかも知れない。

「天龍でさえ張らなかったんだけどな」(馬場)

同シリーズでブレイクを果たした選手も。川田利明は、88年の同シリーズ開幕日に、天龍のパートナーに急遽抜擢。正パートナーの阿修羅原の解雇による緊急措置であった。当時、90㎏に満たなかった川田は、それでも奮闘し、最後まで優勝戦線に残り、シリーズを盛り上げたが、語り草になっているのが、12月4日のジャイアント馬場&ラッシャー木村。この日、川田は馬場に張り手を見舞ったのだ。「凄いですよね。(張った相手が)僕ですからね」という馬場の述懐も、なにげに恐い。師匠・天龍は、「ジャイアント馬場に張り手を見舞った。これは、どんな技を覚えるより、これからの財産になること」と、当時、評している。

新日本プロレスを辞める際にも、同様の儀式をしたハンセン

最後はフォークと同じく、小道具に対する逸話を。スタン・ハンセンは、(おそらく自身にとって)本当重要な試合前、ある行動を見せる。被って来たトレードマークのテンガロンハットを客席に投げるのだ。よって、数えるほどしかない行為だが、例えば、馬場との初対決(82年2月)や、自身の最後の試合(00年10月)で投げている。そして、最強タッグ中にも、何度か投げているのだ。

一つ目は、83年の12月、ブルーザー・ブロディと組み、鶴田&天龍と戦った一戦。ブロディとはレスラーとして全く売れなかった時期、畑の大根を盗んで食し、夢を語り合った、あまりにも旧知の親友だった。この試合でハンセン&ブロディは優勝し、賞金の書かれた小切手を模したパネルを割り、2人で分け合った。この瞬間が「レスラー人生で最も嬉しかった時」とハンセンは語る。

もう1つは、88年の同大会最終戦。テリー・ゴディと組み、天龍&川田と戦った実質的な優勝戦。この年の7月、盟友・ブロディは客死していた。そんな年の最後を締める試合前、ハンセンはハットを客席に投げた。

そして、ハンセンは天龍を下し、見事優勝を果たしたのだった。

プロレスライター 鳥浜 英佐