
プロレス通信簿
プロレス通信簿~世界最強タッグ決定リーグ戦秘話(90年代編)
今回は前回に引き続き、現在開催中でもある「世界最強タッグ決定リーグ戦」(*12月6日に閉幕。)の歴史に埋もれた秘話を掲載。今回は90年代以降を中心にまとめてみよう。
90年と言えば、天龍源一郎らが全日本から大量離脱した年だが、暮れの同シリーズでも大ハプニングが。ジャイアント馬場が試合中の場外落下の際、左大腿骨を骨折。全く動けなくなり、救急車で運ばれたが、なんと、長身のため、救急車のドアが閉まらなかった。会場は帯広市総合体育館で、日付は11月30日。早くも小雪の舞う中、夫人の馬場元子氏が救急車の後部扉を内側から必死に引っ張って支えながら、病院への到着を待ったという。
その馬場は半年後、見事に復帰。以降、最強タッグでの優勝はなかったが、最も近づいたのが93年。この年はもともと不参加の予定だった馬場だが、ハンセンのパートナーだったテッド・デビアスの体調不良による欠場で代役を務め、終わってみれば黒星なしの準優勝。しかも、最終戦メインの三沢&小橋vs川田&田上の“四天王対決”が時間切れ引き分けに終われば、三つ巴の優勝決定戦になる予定だった。これに関して馬場は、「(巴戦を)やりたくない気持ちが3分の2だったね。やりたくないというのは、自信がないということですよ」と、正直な気持ちを吐露。一方で、ハンセンを指さし、「彼は(巴戦を)やりたくてしようがなかったようだけどね」と笑った。
この日、優勝して世界タッグ王座にも輝き、初めてリング上で涙を見せたのが小橋建太。「四天王とか言われていても、僕だけ世界のベルトを巻いた経験がなかった。三沢さん、川田さん、田上さんとの間にあった線が消せたから」と、その理由を語った。
先週は、初の同点決勝の話題に触れたが、初の(同点)決勝トーナメントになったのが00年の最終戦。4チームが争い、決勝は川田&渕vsスティーブ・ウィリアムス&マイク・ロトンド。ウィリアムス&ロトンドは80年代、「バーシティクラブ」と名付けられた名タッグで、全盛期のロード・ウォリアーズにも勝っている実力派。川田&渕は彼らを相手に21分間闘いながら、1度しかタッチが出来ず、敗退。ちょうど5日後に川田&渕と新日本のリングで対戦予定で、観戦に来ていた永田&飯塚は、「ガッカリ」(飯塚)「渕さんじゃキツイんじゃないの?」(永田)としたが、その5日後の渕は大奮戦。永田&飯塚を相手に30分時間切れ引き分けに持ち込み、全日本プロレスの沽券を守ったのだった。
歴史の中には、コンビの絆を感じさせる言葉も。92年に川田とのタッグで優勝した三沢は、「俺はこのリーグ戦で3分の1も働いてない」と一言。太ももを痛め、満足な体調ではなかったのだ。そして、川田に「ありがとうと言うしかない」と感謝。97年に田上とのコンビで二連覇を果たした川田は、「田上と組んで、良かったと思います」と、当時の仏頂面からは想像出来ぬ謝意を述べた。そして99年、その川田の負傷で急遽パートナーに名乗りをあげたのがハンセン。獅子奮迅の活躍を見せ、最終戦まで優勝の可能性を残したが、最後は小橋&秋山に敗退。(秋山が田上をフォール。)ハンセンは試合後、「パートナーが俺じゃなく、川田なら勝てていたよ。でも、ヘルプがいるならまた喜んで組ませてくれ」と、泣かせるコメントを残したのだった。
プロレスライター 鳥浜 英佐