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10/1【猪木さん死去】猪木さん訃報に藤波、長州、前田ら愛弟子たちが哀悼の意

 アントニオ猪木さんの訃報に接し、新日本時代の愛弟子たちがツイッターアカウントで哀悼の意を表した。

 藤波辰爾は日本プロレスに入門し、猪木さんの付き人を務めた。72年3月、猪木さんが旗揚げした新日本プロレスに参加。ジュニアヘビー級を日本マットに定着させ、新日本人気の一翼を担った。猪木さんとは師弟タッグを結成する一方、師弟対決で名勝負を残している。

 師匠の訃報を受け、88年8月8日、猪木さんと60分フルタイムドローの激闘を繰り広げた時の画像とともに「16歳で出会い68歳になった今でもあなたは私のヒーローです。生まれ変わってもまた、あなたの側に。あなたの記憶を胸に今日もリングに上がってきます」とのメッセージを投稿した。

 長州力氏は猪木さんの弟子でありながら牙をむいた。維新軍を率いていた83年〜84年、新日正規軍と抗争を展開。その間、猪木さんとは3度シングル対決し、いずれも敗れた。ジャパンプロレスから新日本に復帰後、88年7月、89年2月と猪木さんに2度ピンフォール勝ちを収めている。猪木さんが参院選に当選し、国会議員レスラーとなった際、坂口征二氏が社長に就任した新体制の新日本を現場監督として支えた。

 「やっと解放されましまね。リングを降りても貴方は闘魂アントニオ猪木でした まさに闘魂そのものでした」と師匠への敬意を表した長州氏はツーショット写真とともに「猪木さんどうか安らかにお休みになって下さい」と投稿した。

 前田日明氏も師匠・猪木さんに反目した一人。若手時代は猪木さんの付き人を務めた。海外遠征から凱旋後の83年、第1回IWGPリーグ戦で猪木さんとの師弟対決が実現している。旧UWFに移籍し、崩壊後はUWF軍団の大将として新日本にUターン参戦。猪木さんに対戦を迫ったが、2度目の一騎打ちは実現しないままとなった。「いつも黙って背中で語り行動する人でした。猪木寛至と同時代を過ごせた事が幸運でした。とんでもなくお世話になりました。有難う御座いました」と謝意を示した前田氏は「長い間お疲れ様でございました。御冥福を衷心よりお祈り申し上げます」と哀悼の意を表した。

 初代タイガーマスクこと佐山サトルも元猪木さんの付き人。81年にタイガーマスクとしてデビューし、新日ブームの原動力となった。一度は引退し、猪木さんとたもとを分かったが、97年4月に猪木さんと一騎打ちで再会。猪木さんが引退後に立ち上げたUFOでは右腕的存在となった。佐山はストロングスタイルプロレスのツイッターアカウントを通じて「きっかけは憧れ 三年修行させて頂き、二年半の全盛時を過ごさせてもらい、私にはあの時から今日まで 個人のためという自覚はありません。私の師匠 アントニオ猪木 拳拳服膺して ご冥福を祈ります」と猪木さんの死を悼んだ。

 来年2月に引退を控える武藤敬司も猪木さんの愛弟子の一人。海外遠征から凱旋直後の86年11月に猪木さんとタッグながら初対決し、鉄拳制裁を受けた。94年5月にはグレート・ムタとして猪木さんと最初で最後の一騎打ちが実現している。若手時代に練習を共にしている際の写真とともに「猪木さんが亡くなった。走馬灯のように数々の思い出が溢れてくる」と投稿した武藤は「きっと俺の中にも猪木イズムが流れている。。『来年の引退まで精一杯頑張っていきます!』」と引退ロードの全力疾走を誓った。

 蝶野正洋も新人時代に猪木さんの付き人を務めた。猪木さんとはタッグで何度か対戦。90年2月10日、東京ドーム大会で橋本真也(故人)と組んで猪木さん&坂口征二の黄金コンビと対戦した一戦は、猪木さんが控室でインタビューを受けた際、「出る前に負けること考えるバカいるかよ!」とテレビ朝日アナウンサーに張り手を見舞ったシーンで有名。また、2002年2月の札幌大会で猪木さんと問答を展開し、現場監督に任命されたこともあった。師匠の訃報に蝶野は「本当にショックで今言葉になりません猪木さん 安らかにお眠り下さい」と言葉少なに哀悼の意を表した。

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