【ドラディション】藤波が西村修さん追悼試合で奮闘 ケジメの無我興行に意欲 2025/5/16
『DRADITION 2025 SOUL OF DRAGON』後楽園ホール(2025年5月16日) 西村修追悼試合 ○藤波辰爾&小島聡&永田裕志vs長井満也&征矢学&竹村豪氏× 藤波が西村修さんの追悼試合で奮闘。最後はドラゴンスリーパーで竹村を破って西村さんに勝利を捧げると、「僕も無我を彼に捧げましたが、まだちょっと無我が中途半端にとどまっているのがあるんでね。最後の区切りですね。無我をもう1回やるか。なあ、西村」とケジメの無我興行開催に意欲を見せた。 西村さんは2月28日、53歳の若さで死去した。出場予定だったジャイアント馬場没25年追善興行1・31後楽園大会を体調不良のため欠場していたが、代替参戦したのが藤波。かつての師弟関係から一転、絶縁状態にあった2人に関係修復の兆しが見えた状況での訃報となった。 「過去いろんなことがあったにせよ、僕の気持ちの中できれいさっぱり彼に対してのわだかまりはない」という藤波はご遺族の許可を得て、西村さんの追悼試合を開催。西村さんの新日本時代の同期・小島、1年後輩の永田と組んで、ドラディションの前身である無我ワールドプロレスリングに所属していた長井&征矢&竹村と対戦した。西村さんのご遺族も本部席で試合を見守った。 藤波は2023年のNOAH12・2横浜武道館大会で師弟タックを結成していた征矢とのっけから対峙。ロックアップでロープに押し込まれた藤波だが、あえて髪に手を伸ばして揺さぶりをかけると、グラウンドヘッドロックに捕獲する。征矢がヘッドシザースで抵抗しても、確かなテクニックで脱出した。負けじと征矢もヘッドロックからショルダータックルで打ち倒すと、「立て!」とストンピングを連打。ならばと藤波も体勢を崩しながらコブラツイストを仕掛けてみせた。 征矢が西村さんばりの倒立で永田のヘッドシザースから脱出すれば、小島もマシンガン逆水平を竹村に浴びせて躍動。他の選手も西村さんの届けとばかりに奮闘して試合は熱戦に。小島が元無我ワールド軍に長時間捕まったものの、征矢にローリングエルボーからDDTを決めて反撃すると、藤波がドラゴンスクリューを披露し、試合はさらにヒートアップ。長井が「この白目野郎!」と叫んで永田と真っ向勝負を展開した。 竹村は藤波の眼前で大胆にも永田にドラゴンスリーパーを仕掛けたものの、小島がカットに入ると、永田がエクスプロイダーでピンチを脱する。好機にタッチをもらった藤波は竹村をスリーパーに捕獲。ドラゴンスリーパーに移行してギブアップを迫った。長井と征矢がカットに入り、元無我ワールド軍の連続串刺し攻撃に被弾したものの、ドラゴンスクリューで征矢に反攻。永田がコブラツイストで長井を、小島がアナコンダバイスで征矢を押さえる中、藤波がドラゴンスリーパーで竹村からギブアップを奪った。 追悼試合を勝利で締めくくった藤波はマイクを持つと、「西村! これでいいのか。お前の仲間たちがみんな今日揃ってくれたぞ」と天国の西村さんにメッセージ。「本当に今日は最後まで観戦いただき、ありがとうございました」と観客に感謝を表した。 征矢と竹村を「最後、写真ぐらい収まっていけ」と呼び止めた藤波は、「今日は西村君の追悼大会ということで、本当に彼とはいろんなことがありました。でも、最後にはこうやって彼にまつわる仲間が集まってくれました。僕も無我を彼に捧げましたが、まだちょっと無我が中途半端にとどまっているのがあるんでね。最後の区切りですね。無我をもう1回やるか。なあ、西村」とアピールした。 『無我』はプロレスの原点回帰を目指し、西村さんと一緒に1995年に立ち上げた興行で、当初は藤波の自主興行だったが、その後、『無我ワールドプロレスリング』として団体化。西村さんが離脱した翌年の2008年に団体名が『ドラディション』と改称された経緯がある。藤波がケジメの無我興行に意欲を見せて、大きな拍手を受けると、最後は西村さんの息子さんを加えて出場選手による記念撮影で終了となった。 「改めてね、今日こういう感じで追悼大会を迎えてみて、本当に現実なんだなっていうね」と西村さんがいない寂しさを見せた藤波は「でも、彼との思い出を大事に。自分がリングに上がっている間は彼もどこかで一緒に戦っているでしょうし。最後、奥さんと子供が(リングに)上がってきたのがちょっとつらかったね。18年、なんか今思うと後悔ばっかりでね。なんとかならなかったのかなというね。会いたかったなあっていう」と悔いをあらわにした。 それでも「西村君の弔辞で言ったように、最後に無我を捧げたんですけど、そういう部分では1回無我を今まで応援してくれたファンのためにも、最後にもう1回無我という大会を西村君を中心として、もう1回ひとつのケジメとして企画してもいいのかなという。今日のファンを見て思いましたね」とケジメの無我興行に改めて意欲。「来年は自分の55周年というのがね。そういう部分では、違った意味で記念の大会には自分もリングに立っていたいというのがあるんでね。その前に無我を1回ケジメを付けようかなっていう」と年内の開催を視野に入れていた。 【試合後の藤波】 ――西村さんの追悼試合だったが、どんな思いで戦った? ▼藤波「改めてね、今日こういう感じで追悼大会を迎えてみて、本当に現実なんだなっていうね。気のせいか、ちょっと自分の焦りもあるのか、もうちょっとしっかりしなきゃいけないのに、ふらつきが見えたんでね。でも、彼との思い出を大事に。自分がリングに上がっている間は彼もどこかで一緒に戦っているでしょうし。最後、奥さんと子供が(リングに)上がってきたのがちょっとつらかったね。18年、なんか今思うと後悔ばっかりでね。なんとかならなかったのかなというね。会いたかったなあっていう。まあ、今回は西村君だけじゃなくて、本当に自分の大恩人の新間さんをはじめ、自分の周りにいろんな悲しい思いがある中での今年初めてのドラディションの大会なんでね。そういう部分では、自分が腰入れてリングに立つ気分が足りなかったんだけど、でも最後に自分が言った通り、西村君の弔辞で言ったように、最後に無我を捧げたんですけど、そういう部分では1回無我を今まで応援してくれたファンのためにも、最後にもう1回無我という大会を西村君を中心として、もう1回ひとつのケジメとして企画してもいいのかなという。今日のファンを見て思いましたね」 ――やるなら今年中に? ▼藤波「そうですね。日にちは決まってませんけど、日にちが空いたらね。まあ、デビュー54年で、来年は自分の55周年というのがね。そういう部分では、違った意味で記念の大会には自分もリングに立っていたいというのがあるんでね。その前に無我を1回ケジメを付けようかなっていう。ファンとともにね。ファンと立ち上げる大会もいいのかなっていう」 ――征矢選手とはNOAHで組み、今日は対戦したが? ▼藤波「成長はすごいね。彼の成長を見てて、18年は大きいんだなと思うね。確かに1発1発の重みがね」 【試合後の小島&永田】 ――西村さんの追悼試合を終えた今の心境は? ▼永田「まず西村さんの追悼大会の試合に呼んでいただけて、試合をすることができてよかったです。大変光栄でした。生前の2年ぐらい前ですかね。たまたま西村さんと会った時になぜか酔っ払って突っかかってきて、『俺が第三世代じゃないのに』と言ったら、やたらしつこくて、『いや、第三世代だろ』って言ったんですけど。第三世代というと結構周りの世相からかなり叩かれた記憶しかないということで。だから、西村さんは第三世代ということを肯定しつつも、僕には『あんまりありがたくないですよ』という思いがあったんですけどね。西村さん自体は、第三世代として呼ばれていることに、自分も同世代なんだ、第三世代なんだという誇りが強かったようでした。世の中がどんどん時代が流れていく中で、今はやっぱり第三世代と呼ばれる我々の重みというものが、最近やたら僕らに来るんでね。当時はいろんな時代の世相とかあって、第三世代なんて呼ばれ方はありがたくないなって思ったんですけど、時代がどんどん経つうちに、改めて我々が生きてきた証を皆様にかなりいろいろと評価していただけるようで、それはありがたく思います。西村さんがこだわった第三世代というものを、これからも力尽きるまで、自分で背負っていきたいなと思います」 ▼小島「今日は天山さんの代打でしたけど、藤波さんがいて、永田さんがいて、西村さんが見守ってくれているこの状況…90年代を生き抜いてきた新日本プロレスの仲間たちが今日またこうやって、こういう大きな舞台が戦えるっていうのはすごく感慨深いなと思いました。今は2025年という時代ですけど、自分たちが懸命になってやってきた90年代前半から後半にかけて、2000年になってそれから25年以上経っても、まだこうやってメインイベントを張らしてもらっていること。そして、その頂点に藤波さんがいるってこと。本当に心から励みになりました。ありがとうございました」
『DRADITION 2025 SOUL OF DRAGON』後楽園ホール(2025年5月16日)
西村修追悼試合 ○藤波辰爾&小島聡&永田裕志vs長井満也&征矢学&竹村豪氏×
藤波が西村修さんの追悼試合で奮闘。最後はドラゴンスリーパーで竹村を破って西村さんに勝利を捧げると、「僕も無我を彼に捧げましたが、まだちょっと無我が中途半端にとどまっているのがあるんでね。最後の区切りですね。無我をもう1回やるか。なあ、西村」とケジメの無我興行開催に意欲を見せた。
西村さんは2月28日、53歳の若さで死去した。出場予定だったジャイアント馬場没25年追善興行1・31後楽園大会を体調不良のため欠場していたが、代替参戦したのが藤波。かつての師弟関係から一転、絶縁状態にあった2人に関係修復の兆しが見えた状況での訃報となった。
「過去いろんなことがあったにせよ、僕の気持ちの中できれいさっぱり彼に対してのわだかまりはない」という藤波はご遺族の許可を得て、西村さんの追悼試合を開催。西村さんの新日本時代の同期・小島、1年後輩の永田と組んで、ドラディションの前身である無我ワールドプロレスリングに所属していた長井&征矢&竹村と対戦した。西村さんのご遺族も本部席で試合を見守った。
藤波は2023年のNOAH12・2横浜武道館大会で師弟タックを結成していた征矢とのっけから対峙。ロックアップでロープに押し込まれた藤波だが、あえて髪に手を伸ばして揺さぶりをかけると、グラウンドヘッドロックに捕獲する。征矢がヘッドシザースで抵抗しても、確かなテクニックで脱出した。負けじと征矢もヘッドロックからショルダータックルで打ち倒すと、「立て!」とストンピングを連打。ならばと藤波も体勢を崩しながらコブラツイストを仕掛けてみせた。
征矢が西村さんばりの倒立で永田のヘッドシザースから脱出すれば、小島もマシンガン逆水平を竹村に浴びせて躍動。他の選手も西村さんの届けとばかりに奮闘して試合は熱戦に。小島が元無我ワールド軍に長時間捕まったものの、征矢にローリングエルボーからDDTを決めて反撃すると、藤波がドラゴンスクリューを披露し、試合はさらにヒートアップ。長井が「この白目野郎!」と叫んで永田と真っ向勝負を展開した。
竹村は藤波の眼前で大胆にも永田にドラゴンスリーパーを仕掛けたものの、小島がカットに入ると、永田がエクスプロイダーでピンチを脱する。好機にタッチをもらった藤波は竹村をスリーパーに捕獲。ドラゴンスリーパーに移行してギブアップを迫った。長井と征矢がカットに入り、元無我ワールド軍の連続串刺し攻撃に被弾したものの、ドラゴンスクリューで征矢に反攻。永田がコブラツイストで長井を、小島がアナコンダバイスで征矢を押さえる中、藤波がドラゴンスリーパーで竹村からギブアップを奪った。
追悼試合を勝利で締めくくった藤波はマイクを持つと、「西村! これでいいのか。お前の仲間たちがみんな今日揃ってくれたぞ」と天国の西村さんにメッセージ。「本当に今日は最後まで観戦いただき、ありがとうございました」と観客に感謝を表した。
征矢と竹村を「最後、写真ぐらい収まっていけ」と呼び止めた藤波は、「今日は西村君の追悼大会ということで、本当に彼とはいろんなことがありました。でも、最後にはこうやって彼にまつわる仲間が集まってくれました。僕も無我を彼に捧げましたが、まだちょっと無我が中途半端にとどまっているのがあるんでね。最後の区切りですね。無我をもう1回やるか。なあ、西村」とアピールした。
『無我』はプロレスの原点回帰を目指し、西村さんと一緒に1995年に立ち上げた興行で、当初は藤波の自主興行だったが、その後、『無我ワールドプロレスリング』として団体化。西村さんが離脱した翌年の2008年に団体名が『ドラディション』と改称された経緯がある。藤波がケジメの無我興行に意欲を見せて、大きな拍手を受けると、最後は西村さんの息子さんを加えて出場選手による記念撮影で終了となった。
「改めてね、今日こういう感じで追悼大会を迎えてみて、本当に現実なんだなっていうね」と西村さんがいない寂しさを見せた藤波は「でも、彼との思い出を大事に。自分がリングに上がっている間は彼もどこかで一緒に戦っているでしょうし。最後、奥さんと子供が(リングに)上がってきたのがちょっとつらかったね。18年、なんか今思うと後悔ばっかりでね。なんとかならなかったのかなというね。会いたかったなあっていう」と悔いをあらわにした。
それでも「西村君の弔辞で言ったように、最後に無我を捧げたんですけど、そういう部分では1回無我を今まで応援してくれたファンのためにも、最後にもう1回無我という大会を西村君を中心として、もう1回ひとつのケジメとして企画してもいいのかなという。今日のファンを見て思いましたね」とケジメの無我興行に改めて意欲。「来年は自分の55周年というのがね。そういう部分では、違った意味で記念の大会には自分もリングに立っていたいというのがあるんでね。その前に無我を1回ケジメを付けようかなっていう」と年内の開催を視野に入れていた。
【試合後の藤波】
――西村さんの追悼試合だったが、どんな思いで戦った?
▼藤波「改めてね、今日こういう感じで追悼大会を迎えてみて、本当に現実なんだなっていうね。気のせいか、ちょっと自分の焦りもあるのか、もうちょっとしっかりしなきゃいけないのに、ふらつきが見えたんでね。でも、彼との思い出を大事に。自分がリングに上がっている間は彼もどこかで一緒に戦っているでしょうし。最後、奥さんと子供が(リングに)上がってきたのがちょっとつらかったね。18年、なんか今思うと後悔ばっかりでね。なんとかならなかったのかなというね。会いたかったなあっていう。まあ、今回は西村君だけじゃなくて、本当に自分の大恩人の新間さんをはじめ、自分の周りにいろんな悲しい思いがある中での今年初めてのドラディションの大会なんでね。そういう部分では、自分が腰入れてリングに立つ気分が足りなかったんだけど、でも最後に自分が言った通り、西村君の弔辞で言ったように、最後に無我を捧げたんですけど、そういう部分では1回無我を今まで応援してくれたファンのためにも、最後にもう1回無我という大会を西村君を中心として、もう1回ひとつのケジメとして企画してもいいのかなという。今日のファンを見て思いましたね」
――やるなら今年中に?
▼藤波「そうですね。日にちは決まってませんけど、日にちが空いたらね。まあ、デビュー54年で、来年は自分の55周年というのがね。そういう部分では、違った意味で記念の大会には自分もリングに立っていたいというのがあるんでね。その前に無我を1回ケジメを付けようかなっていう。ファンとともにね。ファンと立ち上げる大会もいいのかなっていう」
――征矢選手とはNOAHで組み、今日は対戦したが?
▼藤波「成長はすごいね。彼の成長を見てて、18年は大きいんだなと思うね。確かに1発1発の重みがね」
【試合後の小島&永田】
――西村さんの追悼試合を終えた今の心境は?
▼永田「まず西村さんの追悼大会の試合に呼んでいただけて、試合をすることができてよかったです。大変光栄でした。生前の2年ぐらい前ですかね。たまたま西村さんと会った時になぜか酔っ払って突っかかってきて、『俺が第三世代じゃないのに』と言ったら、やたらしつこくて、『いや、第三世代だろ』って言ったんですけど。第三世代というと結構周りの世相からかなり叩かれた記憶しかないということで。だから、西村さんは第三世代ということを肯定しつつも、僕には『あんまりありがたくないですよ』という思いがあったんですけどね。西村さん自体は、第三世代として呼ばれていることに、自分も同世代なんだ、第三世代なんだという誇りが強かったようでした。世の中がどんどん時代が流れていく中で、今はやっぱり第三世代と呼ばれる我々の重みというものが、最近やたら僕らに来るんでね。当時はいろんな時代の世相とかあって、第三世代なんて呼ばれ方はありがたくないなって思ったんですけど、時代がどんどん経つうちに、改めて我々が生きてきた証を皆様にかなりいろいろと評価していただけるようで、それはありがたく思います。西村さんがこだわった第三世代というものを、これからも力尽きるまで、自分で背負っていきたいなと思います」
▼小島「今日は天山さんの代打でしたけど、藤波さんがいて、永田さんがいて、西村さんが見守ってくれているこの状況…90年代を生き抜いてきた新日本プロレスの仲間たちが今日またこうやって、こういう大きな舞台が戦えるっていうのはすごく感慨深いなと思いました。今は2025年という時代ですけど、自分たちが懸命になってやってきた90年代前半から後半にかけて、2000年になってそれから25年以上経っても、まだこうやってメインイベントを張らしてもらっていること。そして、その頂点に藤波さんがいるってこと。本当に心から励みになりました。ありがとうございました」